新型コロナの人工呼吸器不足とトロッコ問題 「誰が死ぬべきか」

死についてあれこれ
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トロッコ問題

トロッコ問題とは簡単に言えば「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という哲学的な問題。

wikipediaより

ブレーキの効かない電車が左方向から右方向へ走ってきているとします。

まっすぐ行けば5人を轢き殺してしまいますが、分岐器にいる人(A)が電車の進路を変えれば5人を助けることが出来ますが、代わりに1人の人が死ぬことになります。

我々は5人を救うために1人を殺すべきなのか。

それとも元々死ぬ運命にあった5人を見捨てて1人を救うべきなのか(殺すべきではないのか)。

トロッコ問題はハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授の授業で取り上げられたことから一躍有名になり、大学の授業やゼミなどでも頻繁に議論されるようになったようです。

コロナショックとトロッコ問題

日常生活を生きている時にはこんな究極的な問題はまず起こりませんが、今回のコロナショックでこの問題を考えさせられる事態になりました。

新型コロナウイルスは重度の肺炎を発症させることが知られており、重症となれば人工呼吸器を装着しなければ自分で呼吸することすらできないほど恐ろしい病。

しかし人工呼吸器の数は限られているので、全ての重症患者に用意されているわけではありません。

もし人工呼吸器の数を上回る重症患者が運ばれてきた時はどうすればいいのか。

一体誰に人工呼吸器を付けるべきで、誰は諦めるべきなのか。

これはトロッコ問題から派生した問題と言えます。

人工呼吸器が5つあり、重症患者が6人いるとしたら、1人だけ人工呼吸器を装着することが出来なくなります。

その1人を選ぶ基準などこにあるのか。

色々なケースが考えられます。

例えば6人のうち1人は過去に重大犯罪を犯した前科者の場合、あるいは老人だった場合、あるいは元々持病持ちだった場合、その人たちを犠牲にしてでも残りの5人を救うべきだと多くの人は思うかもしれません。

またその6人の中に医者や弁護士、お金持ちなど、生きていれば社会の役に立ちそうな人が含まれている場合にはそういう人を優先的に救うべきだと思うかも知れません。

こういう「社会全体にとって良い結果をもたらす人を救うべきだ」という考え方を功利主義(ベンサム)と呼びます。

対して「社会全体に良い結果をもたらすかどうかではなく自分が当事者になった時にどう行動するか(されて欲しいか)という原則から行動すべきだ」という立場を道徳主義(カント)と言ったりします。

要するに「自分が切り捨てられる1人になった時にどう思うのか」ということです。

いくら自分が社会に対して役立たずであっても、それを理由に切り捨てられるべきではないという考え方です。

この「功利主義」と「道徳主義」の対立はしばしば社会問題の内部に見られる構造としてよく知られています。

この対立はある意味不毛で、どちらが正しいということはありませんが、もうすでに我々の社会がどちらの主義を選択したのかはわかってしまいました。

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